お知らせ

 

 佐々井秀嶺 with 玉川奈々福「佛道と藝道」のお知らせ

 

 灌仏会開催のお知らせ

 

 冊子「人創りは胎教から」再版発行

       ・附録 父母十種の恩(仏説父母恩重経より)

 

 比叡山延暦寺住職 宮本祖豊師講演 録(一部改定)

 


 

7月1日(土) コラボイベント 佛道と藝道

今回、この両者による奇跡のコラボレーションが遂に実現!

会の前半は玉川奈々福(曲師:沢村豊子)の浪花節をじっくり、

後半は佐々井秀嶺との対談『佛道と藝道』。さてさて、どんな話が飛び出すか、乞う御期待!

現代インドと平成日本、千里の波涛を越えて響き合う浪花節のこころ。

かたい話は抜きにして、楽しい集いにしたいと考えています。この機会を是非ともお見逃しなく!

 

 

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佐々井秀嶺 with 玉川奈々福

日時:2017年7月1日(土)

開場 18:30 開演 19:00

会場:角筈区民ホール3階

参加費:3,000円

  


 

5月14日(日) 『灌仏会』開催のお知らせ

仏陀のお誕生日」「母の日」「世界慈済の日」の三大節句を一緒に お祝いする「灌仏会」が下記の通り予定されています。 参加希望の方はご一報ください。

場所: 東京都新宿区大久保1-2-16 台湾仏教慈済基金会日本分会
最寄り駅: 東新宿(都営大江戸線・東京メトロ副都心線) B1出口から徒歩1分

(日本語の部)    10:00〜11:30
(中国語の部)    13:00〜14:30
(親への感謝の會) 14:30〜15:30

お問い合わせは、こちらからご連絡下さい。


 

お母さんに読んでほしい良い子≠フ育てかた

「人創りは胎教から」 (PDFファイル)


はじめに

「こんにちはー」
あなたがおじぎをしますと相手の人もおじぎをします。これは何でもない事のようですが、よく考えてみますと他の動物には見られない私たち人間だけの姿です。

私たちは幸いにも万物の霊長たる人間として、この世に生まれ出てこられたのですから幸せに満ちた一生を過ごしたいと考えるのは当たり前のことです。これからお母さんになる人や、いま子育て真っ最中の人にかぎらず、我が子が健康で素直な人に育って欲しいと願わない親はありません。この当たり前の願いこそ皆さんに伝えたい、とても大切な胎教≠フ考え方です。

子どもたちを真心のある優しい人、社会から求められる人格者と言われるような立派な人に育て上げるにはどのようにすればよいのでしょうか。一般的に人間の性格や感性が形成されていくのは、生後の環境や教育によると言われます。もちろん、そのことも大変重要なのですが、もっと重要なことは妊娠時期におなかの中で受けるお母さんからの心の教え、つまり胎教にあるのです。

現代では産まれた赤ちゃんを0歳児と呼びますが、以前、日本では数え年といって産まれた時点で一歳とされていました。このことは、この世に生命≠受けた時から約二八〇日間は、お母さんのおなかの中で肉体が日々成長していくとともに、人間の基本となる心≠熏潤Xと創られている時間の意味でもあるのです。

これまで教えられている胎教の殆どは医学的、肉体的な面から母体の栄養バランスや衛生管理の説明に重点が置かれており、胎児の心≠創り育てていくのは両親、特に母親の精神だという一番大切なことを教えていませんでした。

そこで、原田祖岳老師が提唱された「最も大切な、精神的な問題を取り上げた胎教」の普及に御尽力された野田三郎先生のお話を一人でも多くのお母さんたちに伝えたいとの思いで、大阪府泉佐野市の野出えい様、千葉県市川市の落合富貴子様により、冊子『人創りにはまず胎教を』が配布されてきました。
いま、皆さんのお手元にありますこの冊子は、先達のお気持ちを引き継いでいこうと『人創りにはまず胎教を』を編纂した上で再版された改訂版となります。

原本の内容を大事にして判りやすく書き直していますが、どうしても仏教的表現でお伝えしたい部分もあり、難解と感じられたときには、後で幾度となく読み返していただきますと、きっとご理解いただけると思います。

【追記】
昭和、とくに戦前のお母さんたちはこの本に書かれたような胎教を女の子にはそれとなく話していたように思います。現代のお母さんたちはどうでしょうか?
是非、この胎教を実践していただき、健康な赤ちゃんが産まれて立派な人間に育っていただきたいと思います。熱心にこの教えを伝えられてこられた多くの方々に感謝申し上げるとともに、これからの世代を担う方々への助言となれば幸いです。
ご希望の方には、この冊子をお分けいたしておりますのでご連絡下さい。 

 


 

1.人創りはまず胎教から

 

世の中には天才≠ニ呼ばれる人がいますが、天才には後天的と先天的とがあって、後天的天才とは、本人の熱烈な希望とたゆまぬ努力によって現れるもので、これは誰でもなれるというものではありません。
一方、先天的天才とは、両親の熱烈な希望と、おなかにいるときからの胎教が実って出現するもので、迅速且つ確実な結果を現します。

天才とは、運良く天から才を授かるものではなく、すべて人為的なものです。例えば、サーカスを仕事にする夫婦などの場合、親の希望と行動と、無意識に行われている胎教によって生まれて来た子どもは、その胎教で培われた才能に加えて日常の訓練が積み重なって、幼い頃から常人の及ばぬアクロバットをする事ができます。また、親子代々、音楽家と言う家庭のもとには、同じように両親の希望と、胎教とによって音楽関係の天才が現れるという実例が多く見られます。

この胎教というのは、精神的なものであって妊婦さんが無意識のうちに行なっている事もあり、日常の生活がすべて胎教となって影響しているのです。数多くの天才たちが生まれましたが、これは親の生活環境からくる胎教によるものなのです。

幼少の時から、その秀れた特徴が現れると、人は生まれながらの天才といいますが、よく考えてみれば、精神面、肉体面のすべては、胎教によるところの人為的なものといえます。医学界では遺伝として説明されてしまいますが、それだけではありません。もし遺伝因子だけが原因とするなら、両親に似ない子どもは何故できるのでしょう。突然変異などとして説明がされているようですが、最も大切な胎教の影響については殆んど語られていません。

また、伝えられている多くの偉人たちはその父母の徳によって立派に生まれました。摩耶夫人やマリアの存在なくしては、釈迦もキリストも生まれてこなかったでしょう。『母正しければその子も亦正し』とは、世間でも知られた言葉です。良い子が欲しいと願った時に、すでに親の心は正しくなっています。知ると知らずにかかわらず、人類の子どもたちは胎教によって大きく左右されているのです。

もし、あなたにお子様が二人以上いるのなら、それぞれに異なった性格を見て、その子どもを宿した頃のあなたの心持ちと行ないなどを振り返ってみてください。その時々の、両親の人格、生活、環境のすべてが影響していることに気づくでしょう。そして、そのことで親の精神が胎児の精神を創るうえで、とても大事なことかがよくお判りできると思います。『子は親の鏡なり』です。

 

大切な学問と心の両輪

胎教の影響は、小学校に入学する頃までは特に強く現れます。もちろん、それ以後も父母の精神は潜在的にすべて受け継がれていきます。したがって、胎教を受けた子どもと受けない子どもでは、乳児期、幼児期の育て易さはもちろん、小学校時代から優劣がハッキリしてきます。胎教を受けた子どもは素直で、頭脳や肉体的にも健康で、将来どのような試練や困難にも堪えていける、強い立派な人間になるのは確実です。このことは胎教を信じて行なってこそ実証されるのです。

教育ママ≠ニ言われる親たちは教育のあり方に対する根本的な考えがしっかりしていない間違った姿です。正しい教育とは学問と心の勉強という両輪のバランスが大切です。学問は大いにしなければなりませんが、何のために学ぶのかという根本を知ることが心の勉強です。そのことにより、どのような場合にも動ずる事なく、大いに学び、大いに遊び、のびのびと心身共に健やかに成長するに間違いありません。
そして、一人一人違う子どもの性質に応じて、その子の能力を充分に発揮できるように導いていかなければなりません。

難しい説明になってしまいますが、仏法でいう「中道実相」のこころで、どちらも認めつつ、どちらにも偏らない対応をすることです。そうすることで子供をノイローゼに追い込む事もなく、また野放図にする事もありません。ともあれ、子どもが、将来しっかりした心をもって、世の中のために尽くす事ができるようになれば良いのです。大人が無理やり押し込んだ学問や知識が、子どもが成長していく上でどれ程の役目を果たしている事でしょうか。他人と共に成長してゆく思いやりのある協調性をもった広い心の人になって欲しいものです。伸びる才能は、伸ばしてやりたいと思う気持ちと同時に、根本の心をしっかりと掴んで成長していただきたいと思います。そのような親の気持ちや願いがすべて子どもの心を創っているのです。

では、その胎教とは、どのように行なえば良いのでしょうか。これから述べる具体的な胎教方法を学んで、素晴らしい子どもを育てる、素晴らしい親として是非、実践してみてください。

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 2.胎教の具体的方法

 

これから胎教を勉強して、実践しようと努力することが大切なのは言うまでもありませんが、住んでいる環境や、お仕事、また家族構成などで思ったようにできない場合もあるかもしれません。そんなときにはあまりこだわらずに、自分の置かれた環境のなかで、できる範囲で努力するようにしましょう。
また、ご家族やお友達など、妊婦さんの周囲の方々は協力を惜しまずに胎教の環境作りをお願いいたします。そして妊婦の方は周りの人に、ていねいに協力をお願いするのは良いのですが、「是非、こうしてください」と強要してはいけません。
心穏やかに話し合う事が大切で、他人に強要する事は、自分さえよければ良いという身勝手、わがままになるからです。そのような日常の一挙手一投足、心に思う事すべてが胎教となって、おなかの子どもに影響することをしっかり自覚してください。

 

胎教の消極的方法と積極的方法

私たちは社会から無尽とも言える大量の情報を取り込んで生活していますが、その様々な情報の中から清らかなものを選ぶようにしましょう。これから具体的に胎教の方法を、
イ.消極的対策
ロ.積極的努力 として説明していきます。

ただし、極端に神経質にならないで、できるだけ心がけるようにしましょう。あなたがストレスを感じることはおなかの赤ちゃんにもストレスとして常に伝わっているのですから。

【視覚】

イ. 悪いもの、不快、不安に思うものは見ないこと。火事、変死体、映画やテレビの残酷な場面など、悲惨なものは見ないようにしましょう。
 もし、お仕事の関係でそのような状況に向き合うときは、自分は社会に必要とされる立派な職業に就いているのだという自覚をもって臨んでください。
 また、色彩は心に大きく影響して感情にも直接訴えますから、不調和で不快な色使いとか強烈な色は避けるようにしましょう。

ロ. 昇る朝陽や没む夕陽を見るときは、その爽快さ、雄大さを感動の心で眺めれば、心の広いノビノビした子どもができるでしょう。同じように、海、山脈、河なども感情を豊かに眺めてください。
 あなたの生活の場が、都会だったり、狭い部屋などで周囲に大きな景色が見られなくても、あくせくしないで、一日に一度は大きな気持ちを持つように心がけましょう。夜空を見上げて月や星を見るだけでも良いのです。あなたが草花を見て、花の可憐さ、美しさを感じる時、同じようにおなかの子どもも、その可憐さ、美しさをしっかりと感じています。
 観音像や菩薩像、キリスト像、マリア像など己を捨てて人類の為に尽した偉大な人格者の像や絵を眺めることは、その人格のエッセンスを頂くことになりますから、大変お勧めするものです。

【聴覚】

イ. 音楽による精神的な影響も大きいものです。暗い悲しい低俗な曲は避け、明るく楽しい曲を聴きましょう。耳障りな音、軋む音、叫び声や大声、騒音も避けましょう。ただし、外出先での避けられない都会の騒音などは、その必要性を認めて、むしろ、躍動している現代社会に感謝する気持ちに変えるようにしてみましょう。また、悪口や低俗な噂は自分他人に関わらず一切聞かないようにしてください。たとえ耳に入っても気にしないで早く忘れることです。

ロ. ある時は妙なる松風に心を澄まし、またある時はドーンと岩を打つ勇ましい波の音を聞きましょう。秋の夜に聞く情緒ある虫の音は心情に触れるものがあり、胎児にも良い感性を与えます。またサラサラと風に鳴る竹林の葉の音を聞いたときは、サラサラと執着を捨て、サラリとした心境になれるでしょう。
 また、音楽はストレートな感情の表現ですから、よく選んで情操を養いましょう。例えば、メンデルスゾーンの無言歌のようなやさしい曲や苦しみを乗り越えて全身全霊で作曲した不屈のベートーヴェンは、どれ程多くの人々に生きる力を与えてきたでしょうか。それらの感動は、その生涯を貫く精神が今なお私たちに伝わって来るからです。洋の東西を問わず、高尚な音楽を聴いて、豊かな情操を養うのは良いことです。さらに、機会があれば、尊敬する人の話や徳のある人の講演などを聴いて、その人格を耳から頂戴するのもよいことです。

【嗅覚】

イ. 嫌悪を感じるような臭いや、強い香水などの極端な香りは遠ざけましょう。
 もし、住まいの周辺環境が悪臭のする所だった場合は、どうすればよいのでしょうか。
 まず考えることは、なぜそのような所に生活しなければならないかという因縁≠知ることですが、どうしても悪い環境の中で生活しなければならない以上は、毎日を厭だ、嫌だ、つらい、と愚痴をこぼさないで生活しましょう。生まれてくる子どものためにも、むしろ、その悪因を善因に変えてゆくチャンスと考えて、今の苦しみを甘受するくらいの気持ちに切り替えてみましょう。心に恨みを持ちながらの生活と感謝しながらの生活とでは大違いです。そうする事により、悪環境でも心身共に爽やかに過ごす事ができるのです。この目に見えない心の動きが大きく影響して、人智では計り知ることのできない結果になっていくのです。

ロ. ほのかに漂う好い香りは、心を落ちつかせてくれます。熱帯産の常縁樹から取る丁子などのお香や、最近では心をリラックスさせるラベンダーやユズなどのアロマも普及していますから生活空間にお好みの香りを取り入れて楽しむことも良いでしょう。

【口】

イ. 悪口や心にもないお世辞や、他人の批判を言ってはいけません。どんな理由があっても人を批判するのは正しい心の持ち方ではありません。つい、うっかりでも口にしないようにいつも心がけていましょう。

ロ. 生命の根源となる食事を頂くことは聖なる喜びとしてください。いつもの食事と軽く思わないで、常に感謝の気持ちを持ちながらいただきましょう。特に食べ物の好き嫌いをしないことです。心から感謝しながら食べる気持ちは胎児にも伝わりますから、好き嫌いの無い、一生食べ物に不自由しない人間になるでしょう。また、食事に感謝することで何を食べても良く消化するようになります。
 女性は自分で調理することが多いので料理への感謝が足りなくなりやすいものです。自分で作った食事だと思うのは浅い考えで、葱一本でも太陽、水、土などの恵みを受けておいしい食材に育ったのです。農家の方々は、その生育の手伝いをされたのです。そして、店頭に並ぶ商品を買うということは、流通に携わった方々の労力に対してお金を支払っているということです。
 また、料理に使用する食材も、道具も、熱もすべては大自然から造られたものなのです。僅かでも無駄にしないで自然に感謝して頂きましょう。
 このように、精神界も物質界も、すべて相重なって尽きるところがない関係性を仏教では「重々無尽」といいます。
 また、食事の量は妊婦と胎児のその時々の状況に応じて腹八分目にとどめ、食前食後には落ち着いた静かな時間を少しでも持つようにしましょう。周囲の人は協力してそのような環境をつくってください。
 ご主人が仕事などで遅くなるときも感謝の気持ちで待つことが胎教となります。その気持ちが伝わり、ご主人からは感謝の念を持って「遅くなるから、先に食べていいよ。」という妻への思いやりの言葉になるでしょう。これが真の夫婦の姿だと言えます。つまり、同時に夫婦で真の胎教を実行している事になるのです。
 どうしても、静かな環境で食事ができない時などは、やはりその事にあまりこだわらずに状況を受け入れて感謝の気持で心静かに食事をしましょう。食後は愉快な語らいをして、あくせくしないことです。
 また、料理は見た目にも美しく、切り方にも心を配りましょう。欠けた食器などを使うと、それを見るたびに心のどこかで、嫌だと感じる気持ちが胎児にも伝わります。口に触れるものは、高価でなくとも清潔であるように心がけてください。胎児もきっとそれを感じます。

 

これまで説明したことをまとめますと、正しさの基準となる「宇宙の真理」に基づいた生き方をしましょう≠ニいうことです。これらは、何も難しいことではありません。日常の中でちょっとした心がけでできるものばかりです。規則正しい、清い生活を心がけ、毎日をサラリとした心境で暮らしましょう。

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感謝を忘れず、明るく楽しく暮らしましょう

太陽は私たちに惜しみなく光や熱などのエネルギーを与え、地球上の生き物や風物などの自然も常に我々に恵みを与えています。我々はそういった恵みを頂きっぱなしで一切感謝するほかありません。心の触れるところ、身体の触れるところすべてに善い事ばかりをイメージするように心がけましょう。

そして、夫婦同士でも共通した感性と価値観を持てるように良く話し合いましょう。子どもの将来についても、大きくなったら社会のために活躍できる立派な人間になって欲しいという親としての希望を語り合ってください。生まれてからでいいとか、成長してからゆっくり考えようとか、子どもは勝手気ままにさせたいなどの考えは、子どもの教育に無関心な親の逃げの考えです。

もし、ご両親から「胎教なんか必要ない」と言われたなら、その時は敢えて説得しようとしないで「ハイ」と受け入れて親孝行≠ニ言う胎教をしましょう。勿論、そうは言っても本当に胎教をやめることはありません。胎教の尊さをよく知って、親の意に逆らわないように行ないましょう。

これは仏教の教えで、「時処位」と言って、時と場所と状況を踏まえた上で自他共に救われる考えから、嘘も方便≠ニなるのです。うまく自分で時間と場所を見つけて胎教を行ないましょう。いつも、夫婦なかよく─、親子なかよく─が基本です。

また、生活する上で困難な出来事が起こっても、妊婦は極力、気にかけないように心がけてください。例えば、経済的に困って苦しい時でも、悩んで気にかける事で問題が解決して気持ちが楽になるのならいいのですが、楽になるどころか、ますます気がかりが増えるというものです。その悩み苦しみはもちろん胎児に大きな影響を与えてしまいます。心配して悩み苦しむ事は、解決策を考えて善処することとは違います。

経済的な事に限らず、心配することと、冷静に考えることは混同してしまいがちなので気をつけてください。前向きに考えて夫婦で力を合わせて、頑張って乗り切るようにしましょう。

 

3.出産後からの子どもの育て方

出産直後は別として、産後、落ち着いたら原則として子どもは別室に寝かせる事を心がけましょう。
子どもの、しっかりした自立心は、すでにこの段階から目覚めはじめています。子ども部屋のない場合は、カーテンなどで間仕切りをするとかして工夫してください。目を離しているのが気になるのなら、何度でも子どもの様子を見に行けばよいのです。それを怠るようでは親としての務めを果たしているとは言えないでしょう。

そして、まだ解らないだろうと子どもの前で夫婦げんかなどをすると、親の気持ちが子どもに感応道交して泣き出したりします。このように、子どもの頭脳、知識は親の精神状態や知恵で刻々と育っていきますから、将来このような人物になって欲しいと思う偉人たちの伝記などを読むのもよいことです。

なお、子守りを他人に頼んで済ませるなどは間違いです。親は胎教している時と同じような心がけで乳児に接してください。特に二・三才までは一心同体のつもりで心を込めて見守りながら育てるようにしましょう。
やむを得ず子守りを雇ったり、人に預けたりする場合には、子どもに対する以上の真心をその方にしてあげることです。その真心が通じて、あなたの子どもに対しても真心で正しくやさしく接してくれます。

そして、家族全員が胎教を理解してお母さんが胎教や育児を行ないやすいように一家そろって協力してあげてください。また、子どものいない方は、機会があったらせめて胎教のお手伝いをしてご恩報じ(人から受けた温情や親切に報いること)をなさってください。

 

子どもの最初の教育者はお母さん

女子は高校に入る頃に胎教を学ぶ事が理想です。赤ちゃんの心は、おなかの中にいる時からつくられていく、ということをしっかり理解してもらいましょう。母親からの影響の大きい、幼い頃から母子の対話の中に、自然な形でとり入れられる事が望ましいことです。

たとえば、子どもの何気ない優しい気持ちや行ないを見た時は、「あなたはお母さんのおなかにいた頃の気持を受け継いだのね」というようなことを話すことで、知らず知らずのうちに子どもに胎教を教えている事になります。これは性教育の第一歩ともいえるでしょう。もの心がついてから、いきなり性教育をするより、このような幼児期からの対話が進んで、精神・肉体両面からの本当の性教育ができるのではないかと思います。

また、お母さんは、いろいろなお稽古ごとに励んで自分の品格を向上させるのも結構ですが、「良い子を生み、育てる」という母親としての最も大切な勉強、即ち胎教を軽んじてはいけません。子どもにとって最初の学校は母親のおなかで、最初の先生は母親です。もし、環境が厳しい状況の中にあったとしても、元気な子を産み、健全に育てて頂きたいと思います。

また、親の方針として、「子どもは束縛せずに自由にのびのびと育て、将来についても、成人してから自分の意志で好きな道を選べば良い。」と親の理想的な思い込みで子育てをする方も多く見られますが、それはどうでしょうか…。根本的に、自分の子どもがしっかりした意志をもって、正しい道を選ぶ事のできる子どもに育て上げる≠アとが先決問題だということを知った上でのご意見なら良いのですが。

大人になってから、職業を選ぶ前に「どんな職業に就いても、その仕事の意義を知って立派にやり遂げる事のできる人間に育てる」ことの方が、どれほど大切なことかをしっかり認識して頂きたいと思います。
近年よく報道される、目にあまる青少年の不良化や、自殺、更には、人の道を外れて殺人まで犯すなど、心身に障害を抱えている人が増えているのは、正しい胎教が行なわれなかったために、生命の大切さが伝えられなかったことからくるものだと思います。

現代の精神的荒廃を救う道はいろいろあるでしょうが、いまさら大人を教育する事は残念ながら手遅れといえます。人間は一人一人の考えが異なり、求めることに限りがないものですから、真理に基づいた胎教こそ、次世代を担う人たちに立派に活躍してもらうことが、遅いようで、実は早い確実な方法なのです。

どのような困難な事に直面しても自分で乗り越えられる人間、それは利己主義的な考えではなく、自分も他人も共に手を携えて良くなるようにという自他不二≠フ考えのもとで真理に叶った生き方のできる人間に育て上げることが、子どもに対して如何なる宝、財産を与えるよりも尊いことなのです。やがて、その子供が成人した時には、その子の周囲にも必ず良い影響を及ぼすようになっていくからです。そのためにも、しっかりした信念をもって子育てをする事が、どんなに大切な事かを知ってください。親が真心も信念も持たないで無関心に子どもを育てていながら、大人になった子どもに今更「しっかりしなさい!」と言っても、それは無理な話です。

現に、個人の喜び、楽しみばかりのためでなく、真に生きる目的を掴んで暮らしている人たちが今日どれ程いるでしょうか。家庭でも、学校でも、社会でも、生きる意味と価値をしっかり教えてもらえずに、何を目標に、どう生きればよいのか判らぬまま希望のない青少年の姿は見るにしのびません。

そのような子どもにしたのは親の責任でありますが、真の胎教を知る機会に恵まれなかった親も気の毒だったと言えます。もし、多くの人々が、胎教をしっかり知り、実行していれば、今日の日本はもっと良い国であり、良いリーダーシップをもって世界に貢献できていたに違いありません。
 そのためにも仏教の教えを学ぶことは、我を離れて時所位の判断が正しくできるようになる有効な手段です。この偉大な真理をしっかり知った親から生まれた子どもは、実に正々堂々とした人格をもって、社会で活躍される人となるでしょう。

 

これまで述べてきたことは、知識として知っているだけではあまりにももったいないことです。「仏法」と言われる目に見えない山には、いつ、いかなる時でも頂までしっかりと道がつけられています。でも、最初の一歩を踏み出さなければ、永久に頂上に辿り着くことはできません。一歩一歩ずつ進むことで、やがては必ず目的地に着きます。

どうか、これまで述べてきたことを信じて実行してください。信じて行うところに、期せずして自然と良い結果が現われます。
正しい胎教をできるだけ多くの方に実行して頂き、素晴らしい赤ちゃんが生まれ、将来、社会のお役に立てる立派な人になりますように、と心から願います。そして、そのことが必ずや平和な世界につながっていくものと信じています。 合掌

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付録 父母十種の恩(仏説父母恩重経より)

 

仏説父母恩重経には自分を産んでくれた、この世で誰よりも身近な存在である親の大恩を次の十種として説いています。地球上の全人類に共通する教えといえます。

 

一.懐胎守護の恩

母親は子どもを身ごもってからは、健康な子どもを産みたいことばかりを願います。母親は子どもの健やかな成長を念じながら、血となり肉となるすべてを母親から分け与えて、子どもの身体を創り上げていくのです。

二.臨生受苦の恩

母親は出産にあたり大変な苦しみに耐えながら子どもを産むのです。
私たちは、一人で生まれてきたのではありません。決して忘れてはならない母親の苦労があったからこその、この命なのです。

三.生子忘憂の恩

どうか元気で生まれて欲しいと念ずる親の心はいつの世も同じです。産まれた元気な子どもの顔を見れば、それまでの一切の苦しみを忘れて、家族全員が大きな喜びに歓声をあげて喜んでくれます。

四.乳哺養育の恩

お乳を飲ませ、子どもを育てることは、並大抵のことではありません。母乳は、子どもの成長に合わせ、しだいに濃くなっていきます。温かい母の胸で、命の糧を頂いたことが大人になっても母への感謝の想いを熱く募らせるのです。

五.廻乾就湿の恩

子どものオネショに気づいた母親は下着を替え、自分が寝ていた所へ子どもを寝かせます。そして、自分はオネショで濡れたところに布や新聞紙を敷いて寝るのです。いつでも健やかに育つように子どもの睡眠を最優先させるのです。

六.洗潅不浄の恩

親は、子どもが使ったおむつなど、汚れたものでも、決して臭いとか汚いと思わず、洗濯して常に清潔なものを着せてくれます。自ら、用がたせるようになるまで、その恩は絶えないのです。

七.嚥苦吐甘の恩

親は子どものために、頂いたお菓子や果物を持ち帰って与えます。そして、子どもが喜んで食べる姿を見て満足します。自分は二の次にして、子どもには美味しいもの、新しいきれいなものを与え、子の喜びをわが喜びとするのが親なのです。

八.為造悪業の恩

親は子どものためなら、わが身を犠牲にして戦って守ります。子どもが餓死しようとする危機には、前後を忘れて食べ物を盗むことさえしようとします。洋の古今東西を問わない、子を思う親心です。

九.遠行憶念の恩

子どもが自分のもとを離れ遠くへ行けば行くほど、親の心配は募ります。友だちのこと、学業のこと、仕事のこと、元気でいるのか、お金に困っていないかなど、とにかく子どもの身の回りのことすべてが常に気になっています。

十.究竟憐愍の恩

親はどんなに歳を取っても、いつまでも子どもの事を憐れみ、慈しみます。その愛情は終生絶えることなく、あたかも影のように、親の心は子どもから離れることはないのです。

 

冊子「人創りは胎教から」(PDFファイル)

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    平成27年6月16日

  第一回 和のフォーラム講演録(PDFファイル)

   比叡山延暦寺住職

  宮本祖豊 師


 皆さんこんばんは、比叡山から参りました宮本祖豊と申します。よろしくお願いいたします。
 本日は「和のフォーラム」主催の第一回特別講演会ということでお招きいただき、そして皆さま方、お忙しい中お集まりいただきまして本当にありがとうございます。

 皆さんは、比叡山での「千日回峰行」というものをお聞きになったことがあると思います。この千日回峰行は十二年籠山行の中に取り入れられマスコミなどにも紹介されて最近では大変有名になってきました。比叡山は平安時代に開祖伝教大師最澄上人により人材の養成道場として開かれましたがその中で最澄上人が決められました規則が「十二年籠山行」といって文字通り十二年間、山に籠って行をするものでございます。しかし、こんにちでは十年、二十年単位で修行するという方は非常に珍しくなってきました。
 千日回峰行が派手で『動』の行と言われるのに対して、「十二年籠山行」というのは地味で一つの建物の中に籠って十二年間修業する『静』の行というものです。テレビはもちろん、新聞も週刊誌もラジオもないという世俗と一切関わりを持たない環境で十二年間、伝教大師最澄上人が生きているようにお仕えする行でございます。
 私は御縁によりその行をさせていただきました。そのことを通しまして私がどんな思いで生きてきたのか、そこでなにを得られたかをお話しして、皆さま方の人生、仕事に役立つことができれば非常に光栄に存じます。

  1. 一大決心で比叡山をめざす

 じつは、私はお寺の生まれではございません。皆さまと同様に在家の出身です。北海道の室蘭市に生まれ、高校までは普通の学生生活を送ってきましたが大学受験につまずき浪人生活ということになりました。浪人中ですから当然、受験勉強もしますが時間もたくさんありましていろいろな本を読む時間もできます。ある時、ノーベル賞を受けられました湯川秀樹博士の対談が雑誌に載っているのを読みました。そこで博士は、「学問というのは一生懸命やればやるほど新しい発見、成果というものが出てくる。しかし、偏見というものもあるわけで、それを打破するためにも学問は一生研究し続けるものだ」と言っておりました。当時、私は京都大学で宇宙物理学を勉強したいと思っていましたがそれを読んだときに、急に学問に対する熱が冷めてしまいました。
 もちろん科学も一つの眞理でございます。しかしながらもっと大きな眞理があるのではないか、自分は徳を積むような生き方をしてみたいと思いました。そして自分を見つめ直すと、東大に入れるような賢い頭を持っているわけでもないし、家庭も決して裕福とは言えない一般的な中流家庭です。その時、自分はつくづく徳の少ない人間だなと痛感いたしました。人生を歩み、徳を積みたいという思いがだんだん強くなってきまして思い浮かんだのが宗教でございます。
 私が住んでおりました北海道室蘭では宗教的な施設といえば神社仏閣よりも教会のほうが多くありました。そこで、先ず教会に行きまして神父さんや宣教師の方からたくさんのお話を聴き、キリスト教の勉強をするようになりました。その中で、ある宣教師から自分は二十代の時に、あることで入水自殺したことがきっかけでキリスト教の信仰の道に入ったのだということを言われます。そして、「あなたは熱心にキリスト教の勉強をして詳しくなったけれども、それは信仰とは別なんですよ。人生の一大事の経験といったものがなければ信仰の道へはなかなか入っていけないものです」と言われました。
 私の家はクリスチャンでもないし、私も洗礼を受けているわけではありませんでしたから、そう言われまして「キリスト教とは難しいものだなぁ」と思っていた時に出会った書物がございます。中国で天台宗を完成させました天台大師智(ちぎ)の書いた『魔訶止観(まかしかん)』という坐禅の指南書です。それを読みましたところ、哲学的で内容もしっかりしていて、さらに実践書として書かれていることに非常に感銘を受けました。これを一生勉強するだけも飽きないだろう。さらに、この実践をすることでもっと違った境地が開けるのではないかと思えました。
 最澄上人は十九歳で比叡山に上っていますが、そこで修行するにあたって『願文(がんもん)』という誓いの文章を書いています。千二百年前の文章でありますけれどもここから非常に澄んだ心が伝わってきました。そして世の中にこんな澄んだ精神の持ち主がいたんだと非常に感銘をうけまして、是非こういった雰囲気の比叡山で修業をしてみたいと思ったわけでございます。
 皆さんはお坊さんというと、大体の人はお葬式をする人だと思っています。
 けれども比叡山というのは人材養成の道場なのでお葬式というのは一切いたしません。観光などでの収入は予算としてとってはいますが葬式は行わないのです。そういった比叡山のことや最澄上人のことを両親に説明して、お坊さんになりたいと訴えますが親としてはそんな精神的なものだけでどうして食べていくんだと心配してなかなか話を聞いてもらえません。そして一年、二年と経ちますがどうしても両親を説得できません。
 とうとう二十二歳の時、思い切って書き置きを残して比叡山に修行に出ます。二度と故郷には戻らないと一大決心の覚悟で片道切符だけの旅費を持って比叡山に向かいました。

  2.師僧をもとめて

 そうして、いよいよ比叡山にやってきますが昔とは違い昭和五〇年代の終わり頃では紹介状を持たないどこの馬の骨だかわからない者がお寺の門を叩いて修行させてくださいとお願いしたところで「はい、そうですか」と言って受け入れてくれる時代ではないのです。
 それでも私は根本中堂のご本尊の薬師如来様に「なんとか、お坊さんになれますように」とお願いした後で直接延暦寺の事務所に行きました。そして、「お坊さんになりたいんですけれど」とお願いしましたところ運が良かったのか、仏さまに祈った甲斐があったのか幸い門前払いにはならず「ちょっと話を聞いてあげよう」ということになりました。
 私は是非お坊さんになりたい、坐禅に非常に興味を持っていることなどの思いを話しますと、「それではこの比叡山で一番坐禅に詳しい人に会わせてあげよう。」といって比叡山の西塔という地域で新入社員研修などを主に行っております在家研修道場「居士林」の所長さんだった堀澤祖門(ほりさわそもん)さんという方を紹介してくださいました。現在では八十六歳になり、京都大原三千院の御門主をしております。
 その「居士林」へ行きまして、堀澤さんに是非お坊さんになりたい、坐禅をやりたいと申しましたところ、「じゃあ、ちょっと坐ってみようか」と言っていただき、四
分ほど一緒に坐禅をいたしました。
 坐禅が終わって堀澤さんから、「この近くに比叡山で最も清らかな、日本で最も戒律を守っているお坊さんがいるのでその人に会わせてやろう」と連れていかれたのは開祖伝教大師最澄上人のお墓のある「浄土院」というお寺でした。
 堀澤さんに連れていかれたのはもう夕方になっておりましたけれども、そこの住職でありました高川慈照(たかがわじしょう)さんという方を紹介していただきました。そして自分が疑問に思っていること、悩んでいること、坊さんになりたい理由などみんなこのお坊さんに話したらよろしいと言われ、お話をする機会を頂きました。堀澤さんは私がお坊さんになりたい、十二年籠山をしたいと言ったものですから、この高川師の弟子になってはどうかということで紹介してくれたわけですが、その時はなぜここに連れて来られたのかその意図をさっぱり判りませんでした。
 私はそこでも自分の思いのすべてを延々と話しました。高川師は私の話をじっと聞いて、一々丁寧にこれはこうなんだと答えてくれました。気が付くと十時間以上一人でずっと喋っていました。
 この浄土院というのは伝教大師最澄が生きていると考えてお祀りしている場でございます。皆さんご存知のように肉体は滅してもその魂が生きているお軸などの尊像を御影(みえい)と言います。その真(まこと)の影に侍(はべ)るということからこのお寺に仕えているお坊さんを侍真(じしん)といいます。この侍真職にある人は伝教大師の規則に則って十二年間山を一歩も下りずに修行いたします。たとえ、親が亡くなろうとあるいは大病になろうと一切山を下りることは許されない。ひたすら伝教大師最澄が生きているように十二年間仕える修行です。
 伝教大師はなぜ十二年間と決めたかといいますと、お経の中で『蘇悉地経(そしつじきょう)』という密教のお経があります。その中に最下鈍(さいげどん)という一番レベルの低い者でも十二年間一つのことを行えば必ず一験を得ると書かれています。験≠ニはしるしのことです。これを基に伝教大師は比叡山で修業するお坊さんは必ず十二年間山に籠って修行しなさいと決めたわけです。今日、皆さんは違った形でこの十二年という修行をしております。それは何かというと、六・三・三制という小学校六年、中学校三年、高校三年の教育です。これは当時の政府が一人前に人間になるには十二年かかるという伝教大師のおしえを考慮したといいます。
 さて、浄土院で滔々(とうとう)と話した数日後に高川師から堀澤師に連絡がいきまして、「あんなに喋る男は嫌いだ」と言われ、堀澤さんが考えていた弟子の話はなくなってしまったんです。
 そして、次に紹介されましたのが、比叡山で千日回峰行という厳しい行を二回行いました酒井雄哉(さかいゆうさい)阿闍梨(あじゃり)です。
 今度は電話していただき、丁寧に履歴書を書きまして弟子にしてもらうようにお願いに行きました。当時、酒井阿闍梨は一回目の千日回峰行を満行した後で、二千日に向かっている千二、三百日の頃でありました。
 ご承知の方もおられると思いますが酒井雄哉阿闍梨というのは特攻隊の生き残りと言われます。戦後いろんな仕事や商売をやったのですが、次々に失敗いたしまして四〇歳を過ぎてから、人生を立て直すためにお坊さんの道に入っています。ですから自分の弟子、後継者にする者は一度社会で苦労したことのある人間でなければ受け入れないという信念を持っています。
 当時二十二歳の私に「お前はその年でいったい何ができるんだ。車の免許はもっているのか。お父さんは何をしているんだ。」と尋ねられました。私が免許はないと答えると、じゃあ、父親が大工というならお前は家でも建てられるのかと聞かれます。私はそれもできないと答えますと、「そんな者が坊さんになっても何が人の役に立つんだ。いっぺん社会に出て苦労してこい。三十歳になってもまだ坊さんになりたいという気持ちがあるんだったら、また私のところに来なさい。」と言われました。
 その後、何回も弟子にして欲しいとお願いしたのですが一本筋の通った阿闍梨さんです、その信念は曲げられませんでした。そこで堀澤さんの元へ戻り報告しましたところ思いがけずに「それなら、ちょっと面倒を見てあげよう」と言われ小僧にもならない小僧見習い≠ニいうことで堀澤さんのお寺にしばらく預かっていただくことになりました。
 その時、堀澤師から「世間では一宿一飯の義というのがあるのを知っているか。ご飯を食べさせてやろう。その代り、自分ができることは何でもしなさい。」と言われました。しかし、自分にできることは何にもありません。朝から晩まで境内の掃除と草抜きをやりながら坐禅のしかたや、お経の詠み方を習います。
 ところがひと月も経ちますとご飯の心配はないものの、この先本当にお坊さんになれるのだろうか、はたして僧侶としての道に入れるのだろうかといった心配がどんどん大きくなってきました。その気持ちを堀澤師に話しましたところ、「そんな考え方ではここに置いておけない。今すぐ出て行け。」と言われ、お寺を出されることになりました。当時は何が悪かったのかぴんと来なかったのですが出て行けと言われたところで故郷に帰るお金もありません。わずかに残っていたお金で、以前行きたいと思っていた奈良の大峰山に向かうことにしました。
 私が家出同然で出てきたのは夏の終わりでしたから半袖の服に、持ってきたのは紙袋に詰めたわずかな下着と洗面道具だけです。堀澤師僧は初めて会ったとき、こいつは夜逃げをしてきたのではないかと思ったといういでたちでした。大峰山は一七〇〇メートル以上の高い山ですから十月も過ぎると朝晩は非常に寒く、吐く息は真っ白になります。雨が降ってくる中ではとても野宿することはできません。これではさすがにまずいと登るのを思いとどまり最低限のものを整えようとアルバイトをします。そしてそのお金でなんとかテント、リュックサック、食糧を用意して大峰山に籠りました。ひと月ほど坐禅をしながらこれからのことを一生懸命考えますがどんなに考えたところで、お坊さんの世界は教えてくれる師僧がなかったらこの道を歩むことができません。頼りになるのはやはり堀澤師です。そこで、是非もう一度チャンスを与えてくださいとお願いしましたところ、「じゃあ、来なさい」と言われ堀澤師のもとに戻ります。そして紹介されたのが、一番初めに紹介されました伝教大師最澄がおられる浄土院です。

  3.ご縁がもたらした浄土院での修行

 なぜ、またここを紹介されたかというと、いまでこそ比叡山はドライブウェイなども整備されまして、どなたでも誰でもお参りすることができますが明治になるまでは女人禁制の厳しい修行の道場でございます。
 浄土院はその中でも千日回峰行と並んで厳しい修行をするお寺ですので当然女性はおりません。食事の賄(まかない)などは寺男(てらおとこ)といわれる者がいたしますが当時、浄土院におられた寺男は七十歳くらいになっておりました。体力的に比叡山の厳しい気候についていけないといって辞めてしまいました。さらに寺男になろうとする人もおらず非常に困った事態となっておりました。ちょうどその時、私の話がありましたので「お前、寺男のような仕事で良かったらやるか」と言ってくれたのです。私としては最後のチャンスだからと思い、二つ返事でお受けしました。こうして浄土院で再び小僧見習いとして若いお坊さんと一緒に修行していくことになります。
 浄土院には伝教大師最澄の月命日の四日には比叡山の百人近いお坊さんの中から五人ほどが必ず法要に来られます。また、六月四日の伝教大師最澄の命日「祥月忌」には天台宗トップの地位であります天台座主はじめ、錚々たる高僧二十人が集まって法要を執り行います。こうして年間を通してたくさんのお坊さんが来られるのですが、見慣れない私を見ると「お前はどこから来たんだ、名前は何というんだ」と聞かれます。私はお坊さんになりたくてここで小僧見習いをしていますと言うのですが、誰一人として弟子にしてやろうという方はおりません。お坊さんの世界というのは師僧が見つかって初めて成り立つ世界でございますが、一年、二年経ってもなかなかお声がかかりません。その中で一回だけお声がかかったことがありました。しかし、縁がなかったのか結局ダメになってしまいました。そして二年を過ぎた頃、もういっぺん堀澤師にお願いをしに行きます。
 それまでにも機会があれば何度もお願いしていましたが、弟子をとるということはその人間のすべての面倒を見ることになります。三食食べさせるのはもちろんのこと、大学に行かせるなど、すべての面倒をみることになるわけです。よほど経済的な余裕がなければ難しいことです。堀澤師は多くのお弟子さんを抱えておりましたから、私まで弟子に加える余裕はなかったのですが熱心に何年もお願いするものですから面倒を見ようと言ってくれました。こうしてようやくお坊さんになれることになったのですが、堀澤師から「お釈迦様の時代から弟子になる者は両親の許可が得られなければならない」と言われます。私は家出をして出てきたものですから、これは非常に難題でしたが故郷に帰って全精力を注ぎ、なんとか両親を説得することができました。
 そして、堀澤師の寺に家族全員が集まることになり、ようやく正式にお坊さんの世界に入ることになりましたが、お坊さんの世界に入ったといったところで、じゃあ明日から十二年籠山の行に入れるものではございません。
 十二年籠山行が決められたのは平安時代のことであります。その後、鎌倉時代を経て僧兵といったものが出てきて織田信長の焼き打ちに遭い全山焼失となります。これが復興されますのが江戸時代徳川家光の頃です。そして江戸の元禄時代にこの浄土院において「十二年籠山行」を復活させようといった気運が起きてきます。
 その頃は気持ちのある者だったら、たとえ小僧の身分であっても修行に入ることができたのですが今日ではさまざまな条件があります。比叡山で「十二年籠山」の修業をするということになればマスコミからも注目を浴びることになりますし、いまさら小僧の身分で修業ができるというわけにはいきません。住職でなければなりませんから師僧には学校にも行かせていただきながら経験を重ねて、平成六年に比叡山の住職の資格を得ることができました。

  4.終わりの見えない試練「好相行」

 この十二年籠山は厳しい行ですから願書を提出して会議にかけ、それが住職全員に認められて初めてこの行ができます。
 堀澤師は戦後初めてこの浄土院にて十二年籠山をいたしました僧であります。師僧は行の前に故郷の新潟に帰り、両親に向かってこれから厳しい戒律を守っていく行に入るので命を落とすかもしれない、もう会えないかもしれないと、水杯(みずさかずき)を交わしてお別れの儀式をしてきたというのです。
 私の場合は、平成の時代でありましたからそういった儀式はしませんでしたけれどもやはり故郷の北海道に帰り、もう二度と会えないことを両親に伝えながら十二年籠山行に入っていくことになります。
 しかし、その前に伝教大師最澄に仕えるためのテストがあります。仏教のテストなのでペーパーテストではありません。「好相行」というテストです。
 大変な修行をされて悟りを開いた、生きた伝教大師に仕えるのですから、そこに侍るお坊さんも心を清めるということで懺悔の行をするんです。
 比叡山の行で一番厳しいと言われている千日回峰行と並ぶ十二年籠山行に向かうわけです。千日回峰行はご存知のように山頂山下、一日三〇キロ、二六〇以上の神さま、仏さま、木や草、石に至るまで八百万の霊を拝んで歩きます。毎日真夜中の二時に起きて死装束と言われる真っ白い衣を着て提灯一つで真っ暗な中を出て行きます。比叡山の行の特徴は一度行に入ったらどんな理由があっても退くことは許さないという一二〇〇年前から続く「行不退」の精神です。
 千日回峰行では毎日、暗いうちから山道を歩くわけですから、足を踏み外して捻挫をするとか崖から転げ落ちて骨を折る可能性も非常に高い。しかし、どんな理由があっても退くことは許されません。私は歩けませんから今日は休みますということは許されないのです。
 もし歩けなくなったら、その場で即刻死ねというのがこの比叡山の不退の行ですから千日回峰行者は常に自決用の短刀を腰に差し、さらに首吊り用の紐も必ず腰に巻いて歩いています。ところが人間という者は決死の覚悟で歩けば、やはり怪我をしないものです。こうして代々の行者は千日を満行しております。
 そして、千日回峰行で一番の難関というのは七〇〇日を終えたときの「堂入り」といって断食、断水、不眠、不臥。飲まず食わず、眠らず横にもならずに十万回不動明王の真言を唱え続け九日間お堂に籠る行です。人間というのは水を飲んだら何とか生きられますが、飲まなかったら一週間で亡くなるという科学的な説があります。四日を過ぎると瞳孔が開いて死臭が漂い死の直前まで行くというこの過酷な行でさえも九日間が終ったら満行となります。
 堂入りを終えた千日回峰行者は、その後八〇〇日から一日六十キロ歩く。九〇〇日からは京都の神社仏閣を拝むため足を延ばし一日八十四キロも歩きますが、千日の期限を過ぎたら満行となります。
 ところがこの「好相行」には期限というのはない。心が清まって目の前に仏さんが立つか、自分が死ぬかの二つに一つしかありません。
 仏教で一番丁寧な礼の仕方は両肘、両膝、額を床につけて祈る「五体投地」と言う拝礼です。皆さんの中にもテレビでチベットのお坊さんたちが大地に身を投げ出して礼拝をしているのを見た人がいると思います。それに近い形で日本でも行われます。
 好相行では過去千佛、現在千佛、未来千佛の仏さま全部の名前が書いてある「三千仏名経」というお経を詠みながら一佛、一佛に対して焼香をし、お花を献じて「南無〇〇佛」と言って五体投地を一日三千回いたします。元気な時でも大体十五時間かかります。
 これを心が清まって目の前に仏さまが立つまで続けるのですが何回、何十回、何百回礼をしても私には見えてこない。何千回、何万回続けても見える気配がない。それまでの先輩方は大体三カ月ほど、回数でいうと大体二十五万回ほどで目の前に仏さまが立つと言うんですが、私には百日を過ぎても一向に見えてきません。先輩からは煩悩の多いほど汚れが多いから見えてこないんだと言われます。もちろん自分の煩悩なんて見えるわけではありません。私は在家の出身でしたから漠然とした思いで、見たことはないけれど仏さまや神さまはいるんだろうくらいの信仰心でお坊さんの道に入ったわけです。
 こうして毎日三千回の五体投地をやりますので当然疲れが出てきて時間もだんだんかかるようになってきます。三度の食事、トイレ、そして沐浴(もくよく)といって水をかぶって身を清める時以外は二四時間お堂に入って礼をします。やがて百日も過ぎると体力が衰えていってどんどん首が細くなってきます。眠ることもできませんから昼はまだいいのですが夕方にもなると目が疲れてきて仏さまの名前が書かれている経本の字に焦点が合わなくなってきます。身体はフラフラしてきます。周りで見ている先輩たちはもうこれ以上続けるのは無理だろうという話になってきます。

  5.死を感じながらの修行

 こうして六か月過ぎ、七か月、八か月、九か月過ぎても一向に仏さまが見えてこない。周りからはもうどうしようもない。命が危ないと言われ、とうとうドクターストップがかかって一時中断ということになりました。
 しかし、好相行は仏さまが見えるまでやる行ですので多少の体力の回復を待って再開ということになります。再開した初めのうちはまだ勢いもありますが、やはり三カ月くらい経っても見えてこない。最初のころは師僧、あるいは兄弟子そして指導者たちが頑張れと言って応援してくれます。世間にも知られている行ですから、何か月やっても見えないとなってくると、師僧、兄弟子といえどもそれぞれの立場というものがあります。「死ね」と言ってくるんですね。それしか格好のつけようがない。
 ところが人間、死んでくださいと言われても「はいそうですか」と死ねるものではないものです。こうして決死の覚悟でもってさらに行を続けていくのですが一向に見えないままとうとう半年が過ぎて冬になります。
 比叡山の中でも浄土院の辺りは一番寒い場所です。冬はマイナス一五度以下にもなる中で裸足で床の上に立ち、朝から晩まで「南無〇〇仏」と言って一佛々々に礼拝をしていますと足の油分は無くなり踵が割れて血が出てきます。足の爪先も割れて血が出てきます。ついには土踏まずも割れて血が出てきます。体力がすっかり落ちているので免疫力も無くなっていて、ばい菌が入って化膿してきます。こうなってくると針の上に立っているような痛みです。さらに手の指、手の甲、手の掌の筋も割れて血が出てきます。末端の指先などから冷たくなってきて足は股関節まで痺れて何の感覚もなくなってきます。こうして肩まで冷たくなってきますが頭は非常に冷静でいられるんです。「ああ、これで心臓まで冷たくなったら止まるんだな」と判りますが自分から行をやめるということは一切許されないのです。
 師僧が様子を見に来ると顔は真っ白で蝋人形のように無表情で何の反応もない瞳孔が開いた状態です。そのうちに舌の感覚も死んできて味も全く分からなくなってきます。夜も寝ませんから目がかすんで見えなくなっていきます。眼がいかれますと次は眼とつながっている耳がいかれてきます。平衡器官をつかさどる三半器官がいかれて床が四五度に傾いて見えてきますので立とうとしてもフラフラして立っていられなくなる。とうとう周りから死ぬんではないかと言われて二度目のドクターストップとなりました。
 緊急事態ということで、ふもとから医者が上がって来まして診断をされ、血液検査の結果を待つということになりました。結果は、もう少しだけ生きられるだろうということで三度目に挑んで、ひと月半経った頃ようやく目の前に仏さまを見ることができました。
 ところが私の場合、約三年に亘って一度も横になって寝たことのない過酷な行でしたから疲労困憊して幻覚を見たのではないか。あるいは思い込みで観たと勘違いしているのではないかという意見も出てきます。指導者に仏さまが現れた状況を伝えてそれが本物≠フ仏さまという判定をもらえなかったら満行したとは言えません。
 好相行を満行した堀澤祖門師は、「仏さまというのは肉体の眼で見ることはできないもので心の眼で観るものだから、目の前に仏さまが立った時に目を開けても、目をつむっても目の前に仏さまが立っていなければ本物とは言えない。開けてたら見えるけどつむったら見えないのは偽物だ。またお軸に描かれているような平面的な仏さまであったらそれは仏さまとは言わない。生きているような姿で光を放っている。」と言っています。そして私が観た仏さまは間違いなく本物であると判定されたのです。
 しかし、まだ満行とはなりません。当時、天台宗全国三千寺のトップでありました渡邊(わたなべ)惠(え)進(しん)天台座主(ざす)にこの話をいたしました。座主はこれまでいくつも聞いている行者の話を考慮したうえで「よろしい」と言われました。

  6.いよいよ十二年籠山行に入る

 こうしてようやく「好相行」が満行となって十二年籠山行ができることになったのです。「好相行」が終わりますと日を改めまして、比叡山の戒檀院というお堂で自ら戒律を守る自誓受戒の儀式をいたします。その後、天台座主から浄土院で生きた伝教大師に仕えてよろしいという命令が出され、翌日から伝教大師に仕える十二年籠山行に入ります。
 この行は、毎日朝三時半に起きます。そして四時から一時間のお勤め(読経)をして五時になりますと、伝教大師最澄上人に生きているときと同じように食事を差し上げます。朝はお粥、お漬物、佃煮をお膳に乗せてお供えします。これが終わりますと伝教大師が自ら彫ったと言われる阿弥陀様のご供養をします。
 そして比叡山というのは京都に都があった時から国家の安泰、天皇陛下の安泰を祈る祈祷の道場です。国を守るためのお経というのがあります。護国の三部経と言って法華経(ほっけきょう)、仁王経(にんのうきょう)、金光明経(こんこうみょうきょう)、さらに六百巻の大般若経(だいはんにゃきょう)という長いお経を毎日一巻ずつ詠みます。今日でも国家安泰、天皇陛下の安泰そして世界平和のために毎日祈祷しています。このお勤めを二時間半ほどいたしまして、十時になると昼のお食事となるご飯、味噌汁、野菜の精進料理をお膳に乗せて伝教大師に差し上げます。そしてまたお勤めをします。昼になると境内の掃除をして夕方四時のお勤めをして五時に門を全部閉めます。
 これで一日のスケジュールが全部終わったかというと、そうではありません。これから仏教の勉強や足りない分のお勤めをしたり、坐禅あるいは写経などをして十時に休みます。そして次の日、また三時半に起きて同じことを繰り返します。これを三六五日、毎日同じ時間に同じことをします。正月だから、祭日だからといってお休みなどは一日もありません。それをさらに十二年間も続け続けることで一歩一歩悟りに近づいていくのです。「継続は力なり」これが伝教大師の考え方です。この伝統が一二〇〇年経った今日でも行われているのが比叡山の十二年籠山行です。

  7.光り輝く世界を感得する

 みなさん、「おくりびと」という映画をご存知でしょうか。この原作者、青木新門さんの親友であるお医者さんに、ある時がんの再発が見つかり余命が告げられます。ご自身も医者ですのでこの宣告で自分が何年何か月後に亡くなるんだという確信をして死を受け入れたということです。そしてこの病院から自宅に帰るとき、眼に見えるすべてのものがありがたく感じられたというのです。
 実は、それと同じ光景が好相行をしている最中にも出てきています。当時、食事を済ませてお堂に戻る廊下からわずかに外の景色が見えました。お堂の建物であったり、屋根であったり、木であったり草であったり、石であったり、これらすべてがダイヤモンドのようにキラキラキラキラと輝いて何時間見てもうっとりして飽きないくらい美しいんです。こうしたことが何日も何日も続きました。また、行の最中に身体の中心から泉のように滾々(こんこん)とどうしようもない強烈な悦(よろこ)びが溢(あふ)れて溢れてくるのです。あまりの悦びでそこらじゅうを駈け走り回りたい。それくらい強烈な悦びが湧いてくる。これが何カ月も何カ月も続くんです。だからこそ、もう少しで仏さまが目の前に立つんでないかと思って好相行が続けられたのです。
 じゃあ、そのあとの十二年間は毎日毎日同じスケジュールで退屈だったでしょうと言われることがあります。人間というものは自然とともに起きて、そして陽が沈むとともに一日が終わる。そんな自然の中に生きるうえで食べるものは完全な精進料理です。肉、魚はもちろんのこと、臭いの強いタマネギ、長ネギ、ニラ、ニンニクなどは一切食べません。カツオ節も使わず、水も湧き出ている水を使います。こうして自然とともに生きていると人間は非常に生き生きとしてくる。毎日、自分が生かされているのだということを日増しに感じていきます。その中で仏さまを感得することもありますが毎日目の前に立つわけではありません。当然、体調の悪い日もあります。その時には目に見えない神さん仏さんそして、毎日お仕えしている伝教大師最澄の御加護というものを非常に感じます。これがあって初めて十二年間満行することが出来ます。そういった中で仏教の正しい部分を勉強していきます。
 目の前にある壁は自分の中にある
 皆さんに是非伝えたいのは、仏教は難解なものではなく、自分が行き詰った時にどうするのかということです。人生の中、あるいは仕事をされている中でいろんな壁にぶつかると思います。同じように私も好相行でもう二度と立ち上がりたくないほど疲労困憊しました。責任を取って死ねと言われるなかでどうしてそれを超えたかというと、その立ち上がりたくない中であと一歩≠セけあと一回≠セけ礼拝をしようといった気持でいました。
 人間はどんなに体力がなくて動けない状態でも、あと一回ぐらいはできるものなんです。こうして一回ができますと、もう一回だけやろうと思う。するともう一回できる。これを三度続けると、なんだ、肉体的にも精神的にも限界だと思っていたのは自分が創っていた壁だというのが判るんです。
歩も二歩も先にある壁ではない、いつか見える仏さまではない。あと一歩だけ全力で立ち向かおうという気持ちで一歩、あと半歩踏み出した時にこの壁が破れる。その覚悟さえあれば人間というのは前に進めるんだということを皆さん方に伝えたいのです。
 現代では皆さんは非常に頭を働かせています。私も受験戦争の時代に生きていましたときは頭を使う訓練しかしていない。
 ところが人間というのは不思議なもので、好相行で毎日朝から晩まで眠らずにいると頭が真っ白になるんです。その時、初めて思考能力が止まり、心がどんどん真っ白になっていって我の無い無我≠フ境地になります。そして初めて仏さまというものが見えます。この能力は全員が持っています。この能力が再び開花して感得するということができるのです。
 かつての高僧たちは、いざ頭を使えば哲学的にも誰にも負けないくらい賢い能力を発揮することができ、脳の働きを止めようと思ったら一瞬のうちに思考能力を止められるということができて聖者と言われています。私は人間というのはこの両方ができて初めて精神的にレベルアップするということを理解したわけです。
 仏教は二五〇〇年前お釈迦さまが悟りを開いたときから始まっていきます。そのインドにおいては仏教以外にもたくさんの聖者が出ています。ヒンズー教の聖者、あるいはキリスト教の聖者も出てきます。

  8.レベルアップの極意

 ある信者さんがひとりの聖者に会うことができて、こんなことを尋ねたといいます。「わたしは頭も悪いし信仰心も薄い。けれども人間として生まれたからには精神レベルを上げたい。ついには神や仏を悟りたい。どうしたらいいだろう。」
 その聖者は、「徳の高い人に近づきなさい。必ずあなたの精神レベルを少しずつ上げていって、ついには神さま、仏さまを悟らせるまでもっていってくれるであろう。」と答えます。
 「では、そんなご縁がなかったらどうするのですか。」と聞きますと、「もう一つ方法がある。聖地霊地を訪れなさい。世界にはたくさんの聖地霊地がある。仏教以外でもキリスト教の聖地、ヒンズー教の聖地。神道にも聖地があります。そこはたくさんの修行僧が修行をして悟りを得た所である。目に見えないけれど独特の波動が流れている。そこに行けばかならず精神レベルを上げるチャンスを頂ける。」というのです。
 現に、私の知っている人で全く神、仏を信じないという人がインドの仏跡をめぐるツアーに行って、それがきっかけとなり、とうとう熱心な仏教の信仰を得たという人がいます。こういったことが必ずあります。
 一隅を照らすこととは
 そして、皆さん方にお伝えしたい「一隅を照らす」という言葉があります。この一隅を照らすというのは実は伝教大師のオリジナルの言葉ではありません。中国の故事からとった言葉です。
 一隅に対して千里万里を照らすとは、中国の広大な地域を治める武将がいて、さらにその人たちの中から優れた者が将軍となる。そのような大人物が出てくるうちは中国は安泰だといった話です。
 ところで伝教大師最澄上人は人材養成の場所として比叡山を開かれました。その中に自分のお弟子さんの慈覚大師圓仁(じかくだいしえんにん)、そして智證大師圓珍(ちしょうだいしえんちん)、元三慈恵大師良源(がんざんじえだいしりょうげん)。さらに鎌倉時代になりますと法然上人、親鸞聖人、道元禅師、栄西禅師、日蓮聖人、一遍上人、皆さんこの比叡山で数年から長い人で二十年以上修行いたします。そして、その教えをもって一宗一派を開いていきます。ですから比叡山は日本仏教の母山と言います。
 その比叡山で一番人が多かった平安時代後期には三千人のお坊さんが修行していました。その中で後に大師号をいただいたような人はわずかだけです。じゃあ、みんなが大師号をいただく大人物になることを望んでいたかとそうではない。一隅を照らすということは自分のポストにベストを尽くす≠ニいうことです。千里万里を照らすような世界的な有名な大人物にはなれないかもしれないけれども、自分のポストにベストを尽くせば必ず自分の周りの五人、十人、二十人、三十人といった人たちに光を投げかけて、あるときは立ち直らせ、あるときには癒してあげることのできる人間に必ずなれる。そういった人間を千人、万人、百万人創る。これが伝教大師の考え方です。自分のポストにベストを尽くす≠ニいう一隅を照らす人物をどれくらいこの日本に作っていくのか。これを目標にしてこの「一隅を照らす」という言葉を述べたのです。そして今日天台宗はこれを標語として全日本、世界に展開していっております。
 それぞれの組織でみんな社長さんのような人だったら会社は成り立たちません。当然、部長さん、課長さん、そして平社員もいなければなりません。演劇にしてもみんなが主役では困ります。脇役もいて、縁の下の力持ちとなる見えないところの小道具係、照明係がいて成り立ち、しかもそれぞれを受け持つ人が自分のポストにベストを尽くしてはじめて素晴らしい一つの演劇、一つの組織、そして一つの国、さらに全世界となっていくのであります。このことを皆さん方の心の中に入れてほしいのです。

  9.両親に感謝するこころ

 最後にもう一つ皆さん方に伝えたいことがあります。
 先ほど言いましたように、この仏教はお釈迦さまから始まっています。本屋さんに行くと般若心経の解説書だけでも何十冊も並んでおりますが非常に難しく書いているものが多い。しかし、お釈迦さまはそんな難しいことだけを言ったわけではありません。お経の中でお釈迦さまは、「何回も何回も生まれ代わって、徳を積んでいってとうとう最後に悟りを開いた。人間や動物の時も常に産んでくれた両親に対して親孝行をすることによって私はついに悟りに至った。だから国が違おうが人種が違おうが親孝行をするところには常に私は加護をする。」と言っています。非常に感動的な言葉だと思います。そしてこの親に感謝するということで最近私はこんな感動する話を耳にしました。
 ある会社の社長さんが、社員一人一人がお客さんから感謝されるような立派な人間になって欲しいと思ったそうです。そのために自分には何ができるのかと考えたとき、お客さんから感謝される以前に、まず社員一人一人が両親をはじめ多くの人に感謝できる人間であって欲しいと願いました。そこで思いついたのが入社試験の機会でした。たくさんの学生が集まる中、最後に社長さんが出てこられて質問をしました。
 先ず初めに、「あなた方の中で、子供の時からこれまでお母さんの肩たたきや肩もみをした人はおりますか。」と訊ねました。すると全員の学生の手が挙がったそうです。
 次に、「それでは、お母さんの足を洗ったことはありますか。」こう訊ねたときには一人も手が挙がらなかったのです。
 そこで、この社長さんは「今日から三日間の猶予を与えますので、これからお母さんの足を洗って、私にその報告をしに来てください。それで入社試験は終りで合格になります。」と話しました。
 そんなことで受かるのだったら簡単なことだと思って学生たちは帰っていきます。ところが、ある男子学生はいざお母さんを目の前にすると「足を洗わせてくれ」とはなかなか言いにくい。言おう、言おうと思いながらお母さんの後をついていく。普段そんなことがないものですから、お母さんの方が気味悪がって、なんかストーカーみたいで気持ち悪い、気でも狂ったのかと心配します。それでも、言おう言おうと思ってお母さんの後をついていく。とうとう丸二日間追い回した挙句に「お母さん足を洗わせてほしい」と言ってお願いしました。
 ところが普段親孝行をしたことがないものですから、お母さんのほうが「なんだ、今頃親孝行がしたくなったのか」と冷やかして「ウン」と言ってくれない。しかし、息子が何度も何度も頼むものですから渋々承知をしてくれてようやく縁側で足を洗うということになりました。
 息子はタライにお湯を組んできて足を洗おうとしてお母さんの足を触った時、足の裏がざらざらして非常に荒れていることを知ります。子供の時からの光景が走馬灯のように思い浮かびました。うちは小さい時にお父さんを亡くして、お母さんが女手一つで兄貴と私を一生懸命育ててくれた。その結果がこの足の裏の荒れているザラザラなのだということを思ったときに思わず胸が詰まり、お母さんに「長生きしてほしい」と言ったそうです。それまで息子が親孝行したいことを冷やかしていたお母さんは、その神妙な声を聴きまして、今までなり振り構わず子供たちを一生懸命育ててきて本当に良かった、立派に育ったと思わず胸が詰まって涙がぽたりぽたりと頬を伝わり落ちます。その涙が足を洗う息子の手に落ちると、それに気が付いた息子は泣きそうになるのを堪えて、一言「お母さんありがとう」と言って涙を見せないように二階に駆け上がった。この出来事を社長さんに翌日報告に行ったそうです。そこで、自分はこれまでたくさんの先生からたくさんの教育を受けてきましたが、こんな素晴らしい教育を受けたことはなかったと言ったそうです。
 その時、その社長さんは「その通りだ、君は一人で大人になれたのではない。両親はじめ多くの人達のおかげでもってようやく大人になれたんだ。私も数十年前に新入社員としてこの会社に入り、多くのお客さんからお叱りを受け、先輩から注意を受けながら今度は一人前の社会人にさせてもらった。君もこれから新入社員となって多くのお客さんからお叱りを受け、先輩からも注意を受けて一人前の社会人になっていくであろう。その時に決して自分ひとりで育ったのではないということをしっかりと覚えていてほしい。」
 こう社長が言ったときにこの学生は感謝の心を忘れないことを痛感したというのです。
 みなさんご存知でしょうか。三千年前のエジプトの遺跡で見つかった当時建築中の建物のいたずら書きのなかに「今どきの若いものは」と書いてあるというのです。私ももう五十歳半ばになりました。いまは師僧が、かつていた居士林で新入社員の研修を指導しております。その中において、考え方が違う、行動がまるっきり違うというのを見ると「ああ、今どきの若いものは」と思うことがなんぼでもあります。その時にこの話を思い出しました。
 どんなに世代が変わろうとも、親があるいは大人がちゃんとした言葉で子供たちに言葉を投げかければ、必ずどんな子供でも反応して、人間として一番必要な親に対する感謝、人に対する感謝。これは必ず芽生えてきて忘れないものだということをつくづく痛感した話でありました。
 皆さん是非、若い人たちにその感謝の心を起こさせるように家庭でも会社でも声をかけてほしいと思います。
 本日はご清聴ありがとうございました。

 

 

 

 

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宮本祖豊(みやもと そほう)

昭和35年、北海道生まれ。59年、出家得度。
 平成9年、一仏に対して一々焼香、供華し、各仏名を唱えながら五体投地の礼法を一日三千回、仏の好相を得るまで続ける荒行といわれる「好相行」を満行し、侍真職を拝命。
 その後、開祖伝教大師最澄上人の御廟である比叡山東塔の浄土院の庫裏に籠って十二年間、山を下りずに、最澄上人にお仕えする比叡山で最も過酷な行といわれる「十二年籠山行」に入行。平成21年、満行される。 現在は比叡山延暦寺円龍院住職、比叡山延暦寺居士林所長を務める。昨年10月に致知出版社より『覚悟の力』を出版。

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